洪庵忌について

洪庵忌について
 大坂で適塾を開いた緒方洪庵(1810-63)は、文久3(1863)610日に江戸で亡くなりました。適塾は、懐徳堂とともに大阪大学の精神的源流に位置付けられ、その主宰者である洪庵は「校祖」とも言い得るものです(司馬遼太郎『花神』)。
 本学では、洪庵の命日である610日(旧暦)にちなんで、毎年6月第1月曜日を「洪庵忌」として、その偉業を振り返り、洪庵・適塾の学問的精神を思い起こす一日としています。
【画像1】『花神』.jpg   『花神』

幕府奥医師・緒方洪庵(1862年)
 大阪に骨を埋めるつもりだった洪庵は、幕府からの再三の要請により、文久26月に幕府奥医師(将軍の侍医)への就任を受諾します。齢53(数え年)の洪庵は、その時の心境を長崎留学中の次男平三(洪哉、のち惟準)・三男城次郎(四郎、のち惟孝)宛の手紙にこうつづっています。
(前略)実は先祖への孝と相成り、子孫の栄とも相成り、身に取ては冥加至極難有(ありがたき)事には候えども、病弱の体質、老後の勤め、中々苦労の至、殊に久々住馴たる土地を放(離)れ候事、経済に於ても甚だ不勝手、実に世に謂ふ難有迷惑(ありがためいわく)なるものにこれ在り候、併し乍ら(しかしながら)道の為め、子孫の為め、討死の覚悟に罷り在り候。
 「ありがた迷惑」としながらも、医業や子孫のために「討死の覚悟」で江戸行きを決意した洪庵は、同年8月に江戸に向かいました。奥医師兼西洋医学所頭取に任命されると、将軍の家茂や天璋院篤姫・和宮等を診察しました。重責ある勤めに加え、大坂に比べて堅苦しく、出費も多い江戸での暮らしに、もともと病弱な洪庵は心身ともに疲弊していきます。
【画像2】緒方洪庵「勤仕向日記」.jpg
        緒方洪庵「勤仕向日記」

 緒方洪庵の最期(1863年)
 旧暦の文久3(1863)610日昼過ぎ、医学所内の仮住まいの長屋で書状を読んでいた洪庵は急に咳き込み、口と鼻から大量出血して、そのまま不帰の客となりました。死因について、現代の医師の所見では食道静脈瘤破裂による吐血死の可能性が指摘されています。
 その様子を、3月から移り住んでいた妻の八重が間近に目撃し、次のように書きとどめています(「大坂出立着府後日記覚書」同日条)。
(前後略)坪井(信友)よりの書状御覧の処(ところ)、俄(にわか)にせき(咳)続出。それより口中へもほな(「はな」の誤記)へも血(誤字)沢山出。早刻御薬も用取候も、御養生相叶(「不相叶〈相叶わず〉」の誤記)、早々死遊され、残念筆紙に尽さず。
   一見すると冷静な筆致に思えますが、「はな」を「ほな」と誤記し、「血」の最後の一画を落とすなど、動揺が隠しきれません。しかし江戸で活躍する適塾門下生の協力もあって、速やかに葬儀が執り行われました。葬儀には門下生50名以上が参列し、洪庵が亡くなるちょうど1月前に下関で決行された長州藩の攘夷(翌年の下関戦争のきっかけとなる事件)をめぐって、同藩士となっていた大村益次郎と福沢諭吉が口論する場面もありました(福沢諭吉『福翁自伝』)。
 洪庵の遺体は東京・駒込の高林寺に埋葬され、慶応3(1867)に墓碑「侍医兼督学法眼緒方洪庵之墓」が建てられました。なお遺髪が大阪・天満の龍海寺に納められています。
【画像3】「大坂出立着府後日記覚書」.jpg       【画像4】「侍医兼督学法眼緒方洪庵之墓」.JPG
    「大坂出立着府後日記覚書」              「侍医兼督学法眼緒方洪庵之墓」

 適塾門下生の「懐旧会」(1875年~)
 緒方家を継いだ洪庵の次男・惟準は軍医となり、明治4(1871)から東京・駿河台に居を構えることとなります(東京適塾)。そして同8年の洪庵13回忌に、惟準は適塾門下生を招待しました。集まったのは38名で、高松凌雲・長与専斎・大鳥圭介・福沢諭吉・佐野常民ほか、錚々たるメンバーでした(坪井信良「先師洪庵先生祭辰招集記」)。
 その席上、慶応義塾に日本最初の演説会堂「三田演説館」を前月に開いたばかりの福沢諭吉は、次のように呼びかけます(『横浜毎日新聞』)。
 今日この席に会する者、いずれも官は勅奏の間に在りて、日々不自由もなく、外は朝廷に立つ名誉を得、内は父母に尽の余地あるは、一に故緒方洪庵先生の教訓薫陶の力に因(よ)らざるなし、かく幸福を享(う)け、幸い故先生を辱しめず、古(いにし)え謂う所、生ては循(したが)い死しては安しとの語にも適(かな)いて、今日の大集会、拙者を娯(たのし)ましむる最第一事と存ぜり、(中略)願くは今日の集会を初めとして、一年両度一所に盍簪(こしん―朋輩のより集まり)し、所懐を尽して精神を爽快にするは如何が
2回(『朝野新聞』によれば610日と1110日)、門下生で集まろうとの提案に、満場一致で右手を挙げて賛意を示しました。その後、午後9時まで酒宴が続けられたそうです。
 翌年の14回忌については、「第二回懐旧会」と説明がある集合写真が伝わっています。中央には洪庵の肖像を広げ、その右側には妻の八重が座っています。その周囲を中座した福沢を除く前記4名のほか、武谷祐之・箕作秋坪・手塚良庵(手塚治虫の曾祖父)等、門下生が取り囲んでいます。左端の小児は洪庵の孫・銈次郎(当時5歳)です。
 以後、洪庵の忌日には、門下生によって「懐旧会」が開催されたようですが、いつまで続けられたかは不明です。
【画像5】「第二回懐旧会」2.jpg 「第二回懐旧会」

 高林寺での50回忌祭典(1912年)
 明治45(1912)710日、緒方家により洪庵50回忌が執り行われました。緒方家一族のほか、高松凌雲・花房義質・池田謙斎等、健在の適塾門下生に加え、福沢一太郎(諭吉長男)・菊池大麓(箕作秋坪次男)等の遺族、森林太郎(鷗外)はじめ医学関係者が参列しました。
 なおこの3年前、明治4268日には洪庵に従四位が贈られ、710日に大阪市中之島公会堂において緒方洪庵贈位奉告祭と祝賀会が行われています。贈位をめぐっては、洪庵の六男・収二郎と東京大学医科大学で同級生であった鷗外の尽力があったことが窺えます。奉告祭は緒方家により、神式で執り行われました。祝賀会は大阪市医師会・大阪医学会・大阪私立衛生会が開催を決議し、大阪府知事・兵庫県知事・大阪市長等が祝辞を贈り、大鳥圭介(欠席)が書簡と和歌一首、漢学者の藤澤南岳が漢文で祝意を表し、医史学者の富士川游と京都帝国大学総長の菊池大麓の講演が行われました。楼上には洪庵の書状・画像・著作、「除痘館記録」や「扶氏医戒之略」、『扶氏経験遺訓』版木、「適々斎塾 姓名録」、ウェーランド辞書といった洪庵・適塾にまつわる品々が陳列され、二千有余名が参会する盛儀となりました。50回忌が奉告祭と同じ710日に挙行されたこと、贈位と50回忌に森鷗外が関与した事実から、贈位も洪庵の忌日を多分に意識したものと考えられます。

 大阪大学・適塾記念会と「洪庵先生百年祭」(1963年)
 本学と洪庵との直接的な関わりは、昭和17(1942)に旧適塾の土地・建物が緒方家より国に寄附され、大阪帝国大学が所管することに始まります。戦時中は学生訓育のため適塾で教官と夕食を共にする懇談会や、大阪毎日新聞記者で『適塾の人々』(1944年)著者の浦上五六による塾生に関する講演会が開催されました。
 戦後、本学内外で洪庵・適塾の業績を顕彰する活動が行われていきます。昭和27年には本学総長を会長とする適塾記念会が発足し、適塾記念講演会の開催(1955-63)、会誌『適塾』の発行(1956-59)等がなされました。
 そして昭和38(1963)の洪庵先生百年祭を前に、第8代総長の赤堀四郎は、同年に大阪で開催される第16回日本医学会の総会会頭の今村荒男(第5代総長・初代適塾記念会会長)と協議しつつ準備を進めました。同年331日、龍海寺で墓前祭を挙行した後、適塾記念会・第16回日本医学会総会共催、毎日新聞社後援による「緒方洪庵没後百年記念講演会」を毎日国際サロンにて開催しました。本学文学部教授の藤直幹や日本医学史学会会長の中野操の講演後、演出木村荘十二・劇団俳優座協力出演の映画「洪庵と1,000人の若ものたち」が封切り上映されました。映画フィルム製作は、田辺製薬(現・田辺三菱製薬)の全額寄付により、記念会内に「緒方洪庵没後100年記念映画製作委員会」を置き、シナリオ等の検討を経たものでした。
 また同年34月、大阪市・大阪市教育委員会主催、第16回日本医学会総会・適塾記念会ほか協賛、毎日新聞社後援の「緒方洪庵展」が大阪市立博物館(現・ミライザ大阪城)にて開催されました。本展は、緒方家はじめ全国から資料を集めた、洪庵展として初の本格的かつ盛大なものとなりました。
 なお百年祭の翌年の昭和39年、適塾建物は「緒方洪庵旧宅および塾」として国の重要文化財に指定されています。
 【画像7】洪庵緒方先生之墓(仮).jpg
           「緒方洪庵之墓」

 「適塾の会」「適塾談話会」「適塾の夕べ」(1966年~)
 その後、学内の適塾熱は一時的に下火となりましたが、昭和41(1966)から教官有志が洪庵の命日である610日前後に適塾の奥座敷に集まって「適塾の会」「適塾談話会」「適塾の夕べ」と称する懇親会を学内で開催するようになります。毎回2人ずつが話題提供し、花外楼の幕の内とビールで夕食をともにする会でした。
 常連に藤野恒三郎(微研)、宮本又次(経)、釜洞醇太郎(第9代総長)、伴忠康(医)、芝哲夫(理)、梅溪昇(文)等、30名強が顔を揃えたそうです。彼らに釜洞はよく「君ら物好きやなアー」と言ったように、当時の本学教員には〈物好き〉の“洪庵宗徒”が多かったと、梅溪は書き残しています。やがて彼らから適塾の現状を憂える声が上がり、適塾記念会が再興され、学内では「適塾管理運営委員会」が立ち上がりました。そして昭和50年代前半(1976-80)の解体修復工事(昭和の大改修)に結実していきます。
 解体修復工事終了後は会場を適塾に戻し、学内外から2名の講師を迎え、適塾に関する話題や、各専門分野の最先端の研究についての講演会「洪庵忌―適塾の夕べ―」を開催しています。

「適塾記念講演会」(195563年・19732021)
 適塾記念会では昭和30(1955)に適塾記念講演会を開始しました。「洪庵忌―適塾の夕べ―」が適塾という空間、学内関係者に限定的な講演会であるのに対し、適塾記念講演会は一般に開かれたものです。昭和38(1963)に至るまで年2回、計12回開催されましたが、その後は適塾記念会の活動が低調となり、同46年まで途絶してしまいます。
 昭和48(1973)、適塾記念会の再興を期して白羽の矢が立てられたのが、大阪外語学校(本学外国語学部の前身)出身の小説家・司馬遼太郎(1923-96)でした。適塾記念会では司馬を理事に迎え、「洪庵先生百年祭」の年を最後に途絶していた「適塾記念講演会」が司馬を講師に復活しました。同年1210日、「歴史と人間」という講演でした(日本生命中之島ビル講堂)。この時の講演会が、解体修復工事につながる機運醸成に大きく貢献しています。
 これ以後、本学の現役教授・名誉教授を中心に講師となり、適塾記念会と本学が共催する適塾記念講演会が、毎年開催されてきました。近年では、本学を代表する最前線の研究者が登壇しています。大学の公開講座としては長い歴史を有する適塾記念講演会ですが、最近は本学に限らずあらゆる大学で同様のイベントが林立する状況となっており、2021年にその歴史的役割を終えました。
   【画像8】適塾記念講演会2015チラシ.jpg
 「適塾記念講演会2015チラシ」

 これからの「洪庵忌」(2023年~)
 司馬遼太郎が適塾記念講演会で講演してから、2023年でちょうど50年を数えます。長年、適塾記念会で活躍した本学名誉教授の梅溪昇は、この講演会を「記念会の歴史の上で画期的」と評価しています(梅溪昇・芝哲夫『よみがえる適塾―適塾記念会50年のあゆみ―』大阪大学出版会、2002年)。2023年には西尾章治郎会長(本学第18代総長)の下、適塾記念会の組織改革を行い、適塾防災計画の見直し、イベントの効率化を進めています。
 特に防災計画では、周辺住民・勤務者を巻き込んだ“地域防災”という考え方に基づき、防災体制の強化を目指しています。そのためには、適塾が有する文化財として価値を多くの市民の方々に知ってもらい、市民共有の財産であることを認識してもらう必要があります。そこで、洪庵忌と適塾記念会を発展的に統合し、学生・市民も含めて広く洪庵・適塾を振り返る一日とする新たな「洪庵忌」のあり方を目指します。これからの「洪庵忌」にご期待下さい。