大阪大学へのつながり

1869(明治2)年に洪庵の息子惟準を院長とした大阪仮病院と、オランダ人医師ボードウィンを迎えて惟準はじめ適塾の元塾生らを中心として創立された大阪医学校は、幾多の変遷を経て、大阪帝国大学医学部、そして大阪大学医学部へと発展し今日にいたっています。

大阪大学では、適塾の歴史的遺産を守り、引き継ぐと同時に、所属する研究者が、市民とともに適塾に関する研究・顕彰活動をさかんにおこなってきました。1952年に設立された適塾記念会は、そのような大学の研究者と広く内外の研究者・市民とが共同して展開する活動の中心であるといえます。

このような経緯から、大阪大学では適塾の精神を継承し、研究・教育活動を発展させてきました。大阪大学五十年史編集実行委員会編『大阪大学五十年史 通史』(1985年)は、これまでで最も大規模に行われた本学の沿革史編纂でしたが、懐徳堂・適塾を生んだ近世大坂の学問的伝統が大阪大学へと継承されていったという歴史認識は、ここにおいて明確に打ち出されたということができます。2011年8月に就任した平野俊夫第17代大阪大学総長も、その就任挨拶において、大阪大学が適塾の「自由な学問的気風と先見性」の原点にたち、これを継承する「21世紀に生きる適塾」として教育・研究を推進することを表明しています。

写真

1868年、大福寺の大阪府仮病院

年表

文化7年(1810) 7月14日、洪庵、備中足守(岡山県)藩士佐伯惟因の第三子として生まれる。
文政8年(1825) 洪庵元服。父の転勤(足守藩大坂蔵屋敷留守居役)に伴い大坂へ。(洪庵16歳)
文政9年(1826) 7月、中天游の門に入り西洋医学を修める。緒方姓となる。(17歳)
天保2年(1831) 2月、江戸に出て、蘭学者坪井信道の門に入り、次いで宇田川榛斎に学ぶ。(22歳)
天保6年(1835) 2月、江戸を立ちいったん帰郷。次いで大坂に出、中天游の塾で蘭書を講じる。(26歳)
天保7年(1836) 2月、大坂より蘭学修業のため長崎へ遊学に出る。このとき緒方洪庵を名乗る。(27歳)
天保9年(1838) 1月、長崎遊学を終え、足守へ帰郷。4月、大坂瓦町にて医家を開業、蘭学塾「適塾」を開く。7月、摂津名塩(兵庫県)の億川百記の娘八重と結婚。(29歳)
弘化2年(1845) 12月、過書町の町家(現在の適塾)を購入・移転し、大いに塾を拡張する。
嘉永2年(1849) 洪庵、種痘所を開く。(40歳)翌年、尼崎町に除痘館開設。
文久2年(1862) 8月5日、江戸幕府奥医師兼西洋医学所頭取に任命され、江戸へ。(53歳)養子緒方拙斎が塾生の教育に当たる。
文久3年(1863) 6月10日、洪庵江戸にて突然多量の喀血により急死。(54歳)
明治2年(1869) 3月、大阪府が大福寺(東区上本町4丁目)に仮病院・医学校を設立した際、洪庵の嗣子緒方惟準、義弟郁蔵、養子拙斎らがこれに参加。7月、大阪府病院竣工、仮病院を廃止。11月、大阪医学校開設、大阪府病院は大阪医学校病院となり、その後幾多の変遷をたどる。
明治34年(1901) 洪庵の偉業をしのぶ門弟らにより「洪庵文庫」の設立が表明される。
昭和6年(1931) 5月、大阪帝国大学開学式
昭和15年(1940) 7月、大阪府の史跡に指定される。
昭和16年(1941) 12月13日、国の史跡に指定される。
昭和17年(1942) 9月、適塾が緒方家から国(大阪帝国大学)に寄付される。
昭和22年(1947) 9月、新制大阪大学に改組
昭和27年(1952) 11月5日、適塾記念会が創立される。
昭和39年(1964) 5月26日、国の重要文化財に指定される。
昭和47年(1972) 12月20日、大阪大学適塾管理運営委員会が発足する。
昭和51年(1976)
~55年(1980)
文化庁により解体修復工事が行われる。
昭和55年(1980) 5月、一般公開が開始される。
昭和56年(1981) 7月、適塾周辺史跡公園化事業により東側隣接地に公園が完成する。
昭和61年(1986) 3月、西側隣接地に公園(公開空地)が完成する。

※この項の記述は主に梅溪昇『緒方洪庵と適塾』(大阪大学出版会、1996年)を参考としています。