適塾の教育・塾生

適塾では学級を設けて蘭学教育を行い、各自の努力によって実力を養うことを方針としていました。塾頭の下、塾生は学力に応じて8ないし9級に分けられ、初学者はまずオランダ語の文法「ガランマチカ」、次いで文章論「セインタキス」を学んだ後に原書の会読に加わります。会読の予習のため、塾生は塾に一揃えしかないヅーフの蘭和辞書を奪い合うようにして勉強しました。会読の成績により上級へと進み、上席者から順に席次が決まるため、塾生同士の競い合いは熾烈なものでした。
洪庵は、蘭書の翻訳にあたって字句の末節に拘泥せず要旨をくみとることを重視しました。また、会読の原書は医学に限らず物理や化学に関するものもあり、実験に興ずる塾生もいました。このように各自の自由な学問研究を伸ばす学風が適塾にはあったといえます。

適塾の門下生については、適塾記念会や緒方富雄氏による長年の追跡調査により徐々に明らかになっていますが、「姓名録」に記載された636名だけをみても、その出身地は青森県・沖縄県をのぞく全国にわたっていることがわかります。一人一人の動向をたどることで、新知識を求めて集まってくる熱心な幕末の蘭学徒たちの学業のあゆみ、そして学んだ知識を国元へ持ち帰りその地域で普及させていく、知識の広がりの過程をみることができます。

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