洪庵について

緒方洪庵は、名は章、字は公裁、適々斎または華陰と号しました。「適々斎」の号は「荘子」に由来し、「自分の心に適(たの)しみとするところを適しむ」という意味であるといわれます。常に病気がちでしたが、医学者・教育者としての社会的責務を果たすことを使命とし、その手紙や和歌からは、誠実かつ孝養の人柄がしのばれます。

1810(文化7)年に備中足守藩の家臣佐伯惟因の三男として生まれ、1825(文政8)年に父に従い上坂、翌年来坂して蘭学者中天游の門に入り西洋医学の修行をはじめました。1830(天保元)年には江戸遊学に出て坪井信道や宇田川榛斎に学んだほか、1836年から2年間の長崎遊学を経て、1838年4月に大坂瓦町で開業しました。前年には大坂で大塩の乱が起こり、また翌年には蛮社の獄により蘭学者への迫害が起こるなど、社会は動乱・転換期にありました。

瓦町の家は手狭であったらしく、適塾は1845(弘化2)年末に過書町へ移転し、大いに拡張しました。この地で洪庵は1849(嘉永2)年日本語で書かれた最初の病理学書『病学通論』を著し、1858(安政5)年からはドイツ人医師フーフェラントの内科医書の翻訳『扶氏経験遺訓』を出版しました。

当時、天然痘の流行は人々にとって大きな脅威となっていました。洪庵らは1849(嘉永2)年には大坂古手町(現在の道修町5丁目)にて種痘所(大坂除痘館)を開き、ジェンナー式牛痘種痘事業を始めました。種痘所は1860(万延元)年に尼崎一丁目(現在の中央区今橋3丁目)、すなわち現在の一般財団法人緒方洪庵記念財団の敷地に移転、拡張しました。1858(安政5)年のコレラ流行時には、洪庵は『虎狼痢治準』を緊急出版して治療指針を示しました。こうした活動は、今日の予防医学と公衆衛生学につながる先駆的な業績であったといえます。

江戸幕府は1862(文久2)年、緒方洪庵を江戸に召し出し奥医師とすると同時に西洋医学所の頭取としました。洪庵は翌1863年、江戸で病死します。享年54歳でした。洪庵不在の時期も家人と門人たちは塾を守りましたが、明治新政府の教育制度の整備とともに適塾は発展解消してゆきました。

「緒方洪庵肖像」

写真

五姓田義松画 1901年
適塾記念センター所蔵